名古屋歴史

名古屋に存在する寺院や神社の由緒や、そこで行われる祭りについて紹介します。

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那古野神社例大祭・・・の雰囲気

久しぶりの更新です。

先日、何気に街中を歩いていると、那古野神社例大祭のポスターを発見。そういえば、那古野神社例大祭は曜日に関係なく、毎年7月15日、16日に行われるのだった。というわけで、7月15日に那古野神社へ。

やはり祭だけあって、普段とは雰囲気が違います。

那古野まつり4

この門(?)をくぐって奥へ進むと、巨大な山車発見!

那古野まつり5

舵取り棒が付いていないので、実際に牽くわけではなく、展示してあるだけだと思われますが、それにしてもでかい・・・山車といえば、那古野神社近くの長者町で、10月のゑびす祭りに向けて山車の制作が行われています。その様子はこちら→ゑびす祭り×あいちトリエンナーレ2010

そして、祭りといえば神輿です。

那古野まつり2

こちらは子供用神輿でしょうか?3台ありますが、歴代のものと思われます。

そして、ちょっと分かりにくいですが、この奥にあるのが、大神輿です。

那古野まつり3

重量は1トン以上、担ぎ棒は約10メートル、担ぎ手も最低で80人は必要という代物です。

で、最大の目的は、この神輿が担がれているシーンを撮影することだったのですが、回りを見渡しても担ぎ手らしき人が一人もいません・・・何故?と思い宮司さんに話を聞くと、神輿を担ぐのは明日、16日だそうで・・・

明日は無理!写真撮れない!

残念ですが、雰囲気だけでも堪能できたので良しとしておきます。

来年は16日狙いで行きたいと思います!!
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那古野神社+α

このブログで那古野神社を取り上げて約3ヶ月が経ちますが、それを記念して(?)追加情報です!というのも、先日那古野神社の宮司さんに会い、お話を伺うことができました。神社の境内を見ただけでは分からない、祀られている神様のお話や、名古屋城周辺の地域の歴史についても聞くことができましたので、その内容をまとめてみたいと思います。


那古野神社は延喜11年(西暦911年)3月16日に鎮祭されたと伝えられています。当時は名古屋城の一帯は庄園となっており、京都にある真言宗のお寺が治めていました。那古野神社を創建したのも京都のお寺であるとされています。

那古野神社の御祭神は、須佐之男神、櫛稲田姫神です。須佐之男神はヤマタノオロチの伝承で知られていますが、仏教とともに日本へ伝わった牛頭天王というインドの祇園精舎の守護神と神仏習合の際に習合し現れたと伝えられています。
須佐之男神、牛頭天王とも、荒々しい力を持ち(同じような力を持つ故に習合されたと言われる)、悪いものを退治してくれる力を持つものとされています。また、本地仏が薬師如来であることもあってか、土地を伝染病や災いから守ってくれる神様として祀られています。

現在多くの神社で夏越の祓に茅の輪くぐりが行われていますが、この起源は「蘇民将来」という説話にあるります。その中で須佐之男神の行いが、茅の輪くぐりの起源とされています。

「蘇民将来」
昔、蘇民将来、巨旦将来という兄弟がいた。ある日、旅人(武塔神)が宿を求めて立ち寄ったところ、弟で裕福な巨旦将来はこれを断った。一方、兄で貧しい蘇民将来は粗末ながらももてなした。後に再訪した武塔神は、後に伝染病がおこること、病から身を守るために茅の輪を作り、身につけることを蘇民将来に伝えた。その際、武塔神は須佐之男神を名乗っている。一方、身を守る術を伝えられなかった巨旦将来とその一族は、伝染病により滅んでしまった。


また、須佐之男神は始めて和歌を詠んだ神とも伝えられています。ヤマタノオロチを退治した後、櫛稲田姫神と一緒に暮らす場所を求め、家を建てました。その際に詠まれた歌が以下の歌です。

八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を

この歌が、古事記に記されている日本最古の和歌であることから、初めて歌を詠んだ神とされています。この歌の意味は、雲が幾重にも立ち上り、八重垣を巡らしているようだ。自分が妻を籠らせるために家の周りに巡らした八重垣のようだ。という意味です。また、その雲で家を隠してほしいという願望もあったとされています。そして、須佐之男神はこの地を訪れた際に「気分がすがすがしくなった」として、そこを「須賀(須我)」と命名しました。ここに建てられた家(宮殿)が、現在の須我神社(島根県雲南市)であると伝えられています。


創建当時、那古野神社は名古屋城内に鎮座しており、亀尾天王社と称されていました。名古屋城下町は城を中心に南東に広がっており、その最北の名古屋城あたりは「亀尾山」、最南にあたる熱田神宮あたりは「亀頭山」と呼ばれていました。城下町は、亀の「頭」と「尾」の間、まさに「甲羅」として栄えていたと言っても過言ではありません。そして、この甲羅にあたる場所が「那古野(なごや)」という地名で呼ばれていました。

現在、名古屋市中村区および西区に那古野(なごの)と呼ばれる地名が存在しますが、当時のこの地域は名古屋城下町には該当しません。かつて愛知県愛知郡に存在した那古野村の一部が現在の那古野でありますが、那古野(なごや)との関係や、なぜ読みが「なごや」ではなく「なごの」なのか等はよく分かっていません。
また、当時「那古野」と書いて「なごや」と読んでいたことは、現在の名古屋城敷地内にある、那古野城跡にある石柱に、ローマ字でnagoya(ナゴヤ)と記されていることから間違いないとされています。


ところで、那古野神社は木瓜紋を神紋としていますが、織田家の家紋も同じく木瓜紋です。信秀が当時の亀尾天王社を再興した際に神紋としたと取れるかもしれませんが、元々須佐之男神を祀っている神社の多くが木瓜紋を神紋としているため、創建当初よりのものだと思われます。
では、何故織田家が木瓜紋を家紋としているのでしょうか。それは、織田家のルーツにありました。
織田家は福井県丹生郡越前町にある劔神社の神官の末裔であるとされており、そして劔神社に祀られている神様は須佐之男神でした。故に織田家は木瓜紋を家紋としていたとされています。

「木瓜」は元々はキュウリのことで、木瓜紋はキュウリの切り口をかたどったものであるとも言われます。祭事の期間中はキュウリを食さないといった信仰も残っています。現在日本語で「木瓜」と書くと、ほとんどの場合はボケの花のことを指します。ボケの花の形が木瓜紋の元になったとも言われています。


那古野神社は古くからの神社であるため(平成22年現在で、創建から1099年)、秘宝などが残っていてもおかしくないと思われますが、戦に巻き込まれたことによる焼失、神仏分離令をきっかけとした廃仏毀釈による焼失、空襲による焼失によって、そういったものはほとんど残されていません。

また、現在の那古野神社にも空襲の爪跡を見ることができます。境内にある狛犬ですが、狛犬の部分とそれが乗っている台座部分は、石の質や風化具合からみて明らかに別物と思われます。宮司さんの話によると、元々台座部分は那古野神社にあったものではなく他の地にあり、その上には馬が乗っていたそうです。それが空襲により馬を焼失し、その後那古野神社に狛犬を設置する際に持ち込まれたのではないかとのことです。


今回の取材で、さらに詳しい由緒を知ることもできました。

由緒

延喜11年(西暦911年)3月16日、尾張国那古野庄の地に鎮祭される。

天文元年3月、織田信秀が那古野城城主今川左馬之助氏豊を攻めた際、社殿を焼失。

天文7年、信秀によって再興。

慶長15年、徳川家康の名古屋城築城にあたり隣接する若宮八幡社とともに他地への遷座を求められるが、おみくじにより神意を伺ったところ再三に渡り遷座不可と出たため、御城鎮守の神・名古屋産土神として名古屋城三の丸郭内に取り込まれることとなる。同時に三之丸東照宮(現・名古屋東照宮)と隣接する。

明治維新期、廃藩置県により社領を没収される。続いて神仏分離令により、社名を須佐之男神社と改称する。神仏分離令により、多くの神社が地名、祀っている神様の名称、神様の持つ力などの社名に改めることとなった。

明治9年、名古屋鎮台が城内に置かれるのを機に、東照宮とともに明倫堂の跡地である現在地へと遷座。

明治32年、那古野創始の由緒に基づき、また土地の守り神様という意もあり、社名を那古野神社と改称。

昭和20年3月19日、名古屋大空襲により本殿以下を焼失。

昭和29年、本殿及び祝詞殿を再建。

昭和32年、拝殿を再建。

昭和34年、渡殿及び神札授与所を再建、完工。


今回の取材では、特に祀られている神様について知ることができました。須佐之男神と木瓜紋の関係、木瓜紋と織田家の関係を知って、今までの疑問が一気に解消した感じです。今後、知り合いと神社などに行く機会があって、その神社の神紋が木瓜紋であったなら私の出番です!このうんちくで一目置かれることは間違いなし・・・か?

もう一つの・・・

前回、大須夏まつりについて紹介しましたが、大須商店街ではもう一つ大きな祭りが行われています。「大須大道町人祭」です。

夏まつりは、なんとなく盆踊りだったり、金魚すくいやワタアメの屋台があったり、といったイメージが浮かびますが(大須夏まつりは違いますが)、この祭り、名前を聞いた第一印象は「怪しいにおいがする・・・」。地元芸人か何かの集まり?って感じです。

この祭りでも宝生院、萬松寺が会場として使用される他、大光院、浅間神社といった、大須にある寺院、神社が会場となります。


大光院
慶長初年、清洲に建立、同15年名古屋城築城の際に大須に移転する。大須の赤門通りは、大光院の朱塗りの山門からその名が付けられた。享保の火災、戦災により当時の山門は失われ、現在のものは昭和41年に建立されたものである。
境内の明王殿に祀られている烏瑟沙摩明王は、世の中一切のけがれや悪を清める力を持つと言われる。
線香の煙を手に受けて身体にさすると、心身の病、苦痛を快癒すると伝えられている。
下半身の病にご利益があるとされ、特に女性の病気を治すと言われることから「女の仏様」とも言われる。遊郭があった当時は、そこに働く女性達の厚い信仰を受けた。


浅間神社
明応4年(1495年)後土御門天皇の命により、富士山本宮浅間神社から分霊を勧請し創建された。現在の社殿は、初代尾張藩主、徳川義直の内室、高原院によって建てられた。
もともとは、尾張三名水として名高い柳下水を有する清寿院の鎮守として建てられたが、明治の廃仏棄却により、清寿院は廃寺となり、富士浅間神社のみが残った。


宝生院、萬松寺については前回の記事を参照してください。


この祭り、実際のところはパフォーマンスや日本古来の大道芸、ストリートミュージック、民俗芸能が繰り広げられる祭りのようです。


大須大道町人祭
開催日:10月上旬~中旬の土曜、日曜

官製のまつり「名古屋まつり」に対抗しようと、昭和53年(1978)に始まった庶民の祭りである。戦後衰退しつつあった大須を、ふたたび生活の場、人と人の出会いの場として取り戻そうと、亡びつつある大道芸を呼び集め天下の大道を舞台として「街は人にとって生活ドラマの舞台である」との認識で開催された。
パフォーマンスや演奏以外にも、「おいらん道中行列」、「子供英傑行列」など名古屋まつりの「三英傑行列」に対抗する行列を手作りによって作り上げていった。


「大須大道町人祭」で検索してみると結構な数のサイトがヒットし、そこで行われているパフォーマンスの画像や動画を見ることができます。そういったものを見ると実物を見てみたくなります。8月に大須夏まつり、10月に大須大道町人祭となかなかハードですが、それだけ大須は元気だという証拠かもしれません。そして、毎年名古屋まつりと同じ日に開催するあたり「大須の町人根性みせたるわい!」ってな感じでしょうか。こうして調べてみると、大須って実はすごいかもしれない・・・。

元祖歓楽街で電気街な街

今回は名古屋中区の歓楽街、大須で行われる大須夏まつりを紹介します。

大須といえば名古屋での古くからの歓楽街で、昔懐かしいアーケードの商店街というのが私の第一印象です。しかし、大須といえば?と聞かれたときに思い浮かぶものは世代によって結構違うのではないでしょうか?そこそこ昔の人だと「アメ横」、ちょっと昔の人だと「電気街」、最近の人だと「矢場とん」あたりが思い浮かびそうです。私は大須といえばコメ兵です。昔テレビCMで「いらんものは全部コメ兵に売ろう!」というキャッチコピーが流れていて、「あーゴミみたいなものでも買い取ってくれるんだー」と子ども心ながら思ったもので・・・ちなみに、コメ兵にはまだ一度も行ったことがありません。

そして、大須夏祭りには二つの寺院が大きく関係してきます。宝生院と萬松寺です。「宝生院」と言うと、馴染みがなくて分からない人も多いかもしれません。一般には「大須観音」と呼ばれています。これなら分かりますね。


宝生院(大須観音)
元亨4年に後醍醐天皇が大須郷(現岐阜県羽島市桑原町大須)に北野天満宮を創建。元弘3年に、その別当寺として創建された真福寺が現在の大須観音の始まりである。
その後、世の紛乱と、木曽川、長良川の水害によって寺は荒廃、慶長10年の大洪水で堂塔が流失する。
慶長17年、徳川家康は真福寺の由緒と、そこにある貴重な蔵経の存在を知り、犬山城主の成瀬正茂に命じ現在地に移転させる。
明治25年の大須の大火と、第二次世界大戦の空襲による2度の焼失を被った後、昭和45年に再建され現在に至る。
寺号は「北野山真福寺宝生院」、宗教法人としての公称は「宝生院」だが、一般はには「大須観音」の名で知られ、東京都台東区 金龍山浅草寺の浅草観音、三重県津市 恵日山観音寺の津観音とともに日本三大観音の1つとも言われている。また、なごや七福神の一つである布袋像が安置されている。
毎月15日と28日には骨董市が開催され、多くの人で賑わいをみせる。


萬松寺(万松寺)
天文9年、織田家の菩提寺として織田信秀が開基。那古野城の南側に建立されたが、慶長15年、名古屋城を築く際に現在の場所に移転された。徳川家が織田家に縁のある者の存在を恐れたため移転させたとも言われている。
移転後も尾張徳川家朱印寺として篤く信仰され「故亜相源敬公大夫人霊廟」が置かれるなどしていたが、幕末頃から序々に衰退。
当時、23309坪もの広さの土地であったが、大正元年に37世、大円覚典和尚が寺領の山林の大部分を開放。開拓された町は現在の大須三丁目となり賑わった。
しかし、昭和20年3月12日の名古屋大空襲で大須は焼け野原と化した。その後、本堂が再建されたのは平成になってからである。平成6年に本堂が完成する。
万松寺では、毎月28日に身代わり不動明王前で「身代わり餅」が無料でふるまわれる。これは歴史的に由緒ある行事で、織田信長が越前朝倉攻略の岐路、杉谷善住坊に鉄砲で狙い撃ちされたが、万松寺の和尚からもらい受けた千餅に銃弾が当たり、難を逃れたという逸話から加藤清正が命名、以後厄除けとして餅がふるまわれる行事として今に伝わるとされている。
信秀が多子だったことにあやかり、古くから安産、息災成長を願う婦女子の参拝が目立つ。


これらの寺院の境内も会場として行われる大須夏まつりですが、近年この祭りが知名度を高めているのは「コスプレパレード」の影響でしょうか?2009年には名古屋市長が、某有名ロボットアニメの主人公のコスプレで登場したとか・・・とにかく、コスプレ以外にも魅力いっぱいの大須夏まつりです。


大須夏祭り
開催日:7月の最終土・日曜または8月最初の土・日曜(年により異なる)

大須観音境内、万松寺境内、大須商店街全域で行われる夏まつりである。大須観音境内、万松寺境内では、太鼓ショー、ダンスショー、バンド演奏、盆踊り大会などが行われる。それ以外の場所では、ふれあい広場で大道芸が、シャンボーブラン前でライブなどが行われる。
また、各所をサンバパレード、コスプレパレードが通過していく。
コスプレパレードは、世界コスプレサミットの参加者によるもので、2004年より行われている。2004年は大須がコスプレサミットの会場になっていたが、その後2005年は愛知万博長久手会場、2006年以降は、オアシス21が会場となっている。


大須は一般的には秋葉原のような電気街でオタクがわんさかなイメージかもしれませんが、実際は、飲食店や洋服屋以外にも、飲み屋、家具屋、仏壇屋、古着屋、世界各国の料理店などがあり、若者、お年寄り、カップル、家族連れ、オタク、外国人が入り乱れる、他の街ではなかなか見られないような光景が見受けられます。こんな場所で祭りが行われるとなると・・・どんな世界が繰り広げられるのか、とても興味深いです。いつもと違う大須商店街を体験するためにも、大須夏まつり、行くしかないですね!

朝日神社

前回、若宮八幡社の現地取材に行ってきましたが、実はその際に広小路まつりの項で紹介した朝日神社にも立ち寄ってきました。地図で調べてみると、若宮八幡社への道のりの途中にあるということで、これは行くしかないと。

まずはいつもの如く鳥居の写真からなのですが、いきなり想定外の事態に。歩道と鳥居が近すぎてファインダーに収まらない。道路から撮影しようにも、中央分離帯があるような大通りで車の通りが激しくて危ない、しかも神社の隣は交番なのでムチャをすると捕まりかねない・・・。というわけで、やむなく反対側の歩道からの撮影となりました。何とか車が通っていない一瞬を狙って撮ったのですが、やはり分かりにくい・・・

朝日神社鳥居

鳥居をくぐってさぁ手水社はどこだろうと見回してみると、手水社以上にインパクトのあるものが飛び込んできます。

朝日神社おみくじ


木の下にあるおみくじの自販機(木製。手作り?)

これって、お金入れたら本当におみくじが出てくるのでしょうか・・・?って、多分でてくるのでしょうけど、試す勇気はありませんでした。おみくじの自販機って初めてだわ・・・

この自販機もそうですが、他にも鳥居をくぐってすぐのところに占いのテントがあったり、なんかちょっと他の神社とは違うテイストがします。


で、気を取り直して手水社ですが・・・

朝日神社手水社

龍の蛇口が亀甲網に囲われている!何故・・・?この龍がものすごい力を持っていて、危ないからその力を封じ込めているとかでしょうか?うーん謎。


拝殿は石段を上がったところにあります。

朝日神社拝殿


石段を上がってお参りをすると、神社に来た!って感じがするのは私だけでしょうか?そういえば、意外にもこれまで取材をしてきた神社で拝殿の前に石段がある神社は無かったですね。そういう意味では私の中ではこの神社はポイント高いです!


お参りも終わり境内を見渡してみると、小さな社が見られます。

朝日神社摂末社

どうやら摂末社のようです。若宮八幡社のようにそれぞれに鳥居があるわけではなく、こじんまりとしています。神社もTPOに合わせて、といった感じですね。でもご利益のありがたさはどんな佇まいでも変わらないはず。

左から公孫樹龍神社、秋葉社・金刀比羅社、天神社・塩釜社、戸隠社・春日社、八幡社、となっています。特に秋葉社は、広小路通りが現在の形になるきっかけとなった万治の大火を機に、遠州の秋葉を請願し城下の火除の神としたもので(秋葉社に祀られる秋葉権現は火難除けの神とされている)、関係の深いものであると考えられます。


また、ここにも稲荷社がありました。

朝日神社稲荷

そして、鳥居の奥にはお社が何故か2つ・・・?

稲荷、子守児宮

どうやら、左側は朝日稲荷社のお社で、右側は子守社・児宮社という神社のお社のようです。この神社は江戸時代に城下で伝染病が流行り、多くの子どもが犠牲になったため子どもの守護神として勧請されたそうです。

他の摂末社のお社とは別な場所に設置されているあたり、この神社の重要性が窺われますが、何故に稲荷社と隣り合わせなのでしょうか?お稲荷様と関係がある神様なのでしょうか。


他には、みこしを保管する倉庫がありました。しかもガラスがはめ込まれた扉なので、中のみこしを見ることができます。若宮八幡社では倉庫の中の山車を見ることはできなかったので、ちょっと得した気分です。

そんな思いでみこしを見ていると、倉庫の隣のしめ縄が巻かれた木に手を合わせ体や足を摩っているご夫人を発見。

朝日神社木

何か身体に良い影響を及ぼす力を持った木なのでしょうか。聞いてみようと思ったのですが、あまりに一生懸命だったのでちょっと話しかけられずでした。残念。

そういえば忘れてました。恒例の360度写真です。

朝日神社360度


そんなこんなで朝日神社の取材も終了ですが、他の神社では味わえない、謎がいっぱいの神社でした。朝日神社侮り難し、です。
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