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名古屋歴史

名古屋に存在する寺院や神社の由緒や、そこで行われる祭りについて紹介します。

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那古野神社+α

このブログで那古野神社を取り上げて約3ヶ月が経ちますが、それを記念して(?)追加情報です!というのも、先日那古野神社の宮司さんに会い、お話を伺うことができました。神社の境内を見ただけでは分からない、祀られている神様のお話や、名古屋城周辺の地域の歴史についても聞くことができましたので、その内容をまとめてみたいと思います。


那古野神社は延喜11年(西暦911年)3月16日に鎮祭されたと伝えられています。当時は名古屋城の一帯は庄園となっており、京都にある真言宗のお寺が治めていました。那古野神社を創建したのも京都のお寺であるとされています。

那古野神社の御祭神は、須佐之男神、櫛稲田姫神です。須佐之男神はヤマタノオロチの伝承で知られていますが、仏教とともに日本へ伝わった牛頭天王というインドの祇園精舎の守護神と神仏習合の際に習合し現れたと伝えられています。
須佐之男神、牛頭天王とも、荒々しい力を持ち(同じような力を持つ故に習合されたと言われる)、悪いものを退治してくれる力を持つものとされています。また、本地仏が薬師如来であることもあってか、土地を伝染病や災いから守ってくれる神様として祀られています。

現在多くの神社で夏越の祓に茅の輪くぐりが行われていますが、この起源は「蘇民将来」という説話にあるります。その中で須佐之男神の行いが、茅の輪くぐりの起源とされています。

「蘇民将来」
昔、蘇民将来、巨旦将来という兄弟がいた。ある日、旅人(武塔神)が宿を求めて立ち寄ったところ、弟で裕福な巨旦将来はこれを断った。一方、兄で貧しい蘇民将来は粗末ながらももてなした。後に再訪した武塔神は、後に伝染病がおこること、病から身を守るために茅の輪を作り、身につけることを蘇民将来に伝えた。その際、武塔神は須佐之男神を名乗っている。一方、身を守る術を伝えられなかった巨旦将来とその一族は、伝染病により滅んでしまった。


また、須佐之男神は始めて和歌を詠んだ神とも伝えられています。ヤマタノオロチを退治した後、櫛稲田姫神と一緒に暮らす場所を求め、家を建てました。その際に詠まれた歌が以下の歌です。

八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を

この歌が、古事記に記されている日本最古の和歌であることから、初めて歌を詠んだ神とされています。この歌の意味は、雲が幾重にも立ち上り、八重垣を巡らしているようだ。自分が妻を籠らせるために家の周りに巡らした八重垣のようだ。という意味です。また、その雲で家を隠してほしいという願望もあったとされています。そして、須佐之男神はこの地を訪れた際に「気分がすがすがしくなった」として、そこを「須賀(須我)」と命名しました。ここに建てられた家(宮殿)が、現在の須我神社(島根県雲南市)であると伝えられています。


創建当時、那古野神社は名古屋城内に鎮座しており、亀尾天王社と称されていました。名古屋城下町は城を中心に南東に広がっており、その最北の名古屋城あたりは「亀尾山」、最南にあたる熱田神宮あたりは「亀頭山」と呼ばれていました。城下町は、亀の「頭」と「尾」の間、まさに「甲羅」として栄えていたと言っても過言ではありません。そして、この甲羅にあたる場所が「那古野(なごや)」という地名で呼ばれていました。

現在、名古屋市中村区および西区に那古野(なごの)と呼ばれる地名が存在しますが、当時のこの地域は名古屋城下町には該当しません。かつて愛知県愛知郡に存在した那古野村の一部が現在の那古野でありますが、那古野(なごや)との関係や、なぜ読みが「なごや」ではなく「なごの」なのか等はよく分かっていません。
また、当時「那古野」と書いて「なごや」と読んでいたことは、現在の名古屋城敷地内にある、那古野城跡にある石柱に、ローマ字でnagoya(ナゴヤ)と記されていることから間違いないとされています。


ところで、那古野神社は木瓜紋を神紋としていますが、織田家の家紋も同じく木瓜紋です。信秀が当時の亀尾天王社を再興した際に神紋としたと取れるかもしれませんが、元々須佐之男神を祀っている神社の多くが木瓜紋を神紋としているため、創建当初よりのものだと思われます。
では、何故織田家が木瓜紋を家紋としているのでしょうか。それは、織田家のルーツにありました。
織田家は福井県丹生郡越前町にある劔神社の神官の末裔であるとされており、そして劔神社に祀られている神様は須佐之男神でした。故に織田家は木瓜紋を家紋としていたとされています。

「木瓜」は元々はキュウリのことで、木瓜紋はキュウリの切り口をかたどったものであるとも言われます。祭事の期間中はキュウリを食さないといった信仰も残っています。現在日本語で「木瓜」と書くと、ほとんどの場合はボケの花のことを指します。ボケの花の形が木瓜紋の元になったとも言われています。


那古野神社は古くからの神社であるため(平成22年現在で、創建から1099年)、秘宝などが残っていてもおかしくないと思われますが、戦に巻き込まれたことによる焼失、神仏分離令をきっかけとした廃仏毀釈による焼失、空襲による焼失によって、そういったものはほとんど残されていません。

また、現在の那古野神社にも空襲の爪跡を見ることができます。境内にある狛犬ですが、狛犬の部分とそれが乗っている台座部分は、石の質や風化具合からみて明らかに別物と思われます。宮司さんの話によると、元々台座部分は那古野神社にあったものではなく他の地にあり、その上には馬が乗っていたそうです。それが空襲により馬を焼失し、その後那古野神社に狛犬を設置する際に持ち込まれたのではないかとのことです。


今回の取材で、さらに詳しい由緒を知ることもできました。

由緒

延喜11年(西暦911年)3月16日、尾張国那古野庄の地に鎮祭される。

天文元年3月、織田信秀が那古野城城主今川左馬之助氏豊を攻めた際、社殿を焼失。

天文7年、信秀によって再興。

慶長15年、徳川家康の名古屋城築城にあたり隣接する若宮八幡社とともに他地への遷座を求められるが、おみくじにより神意を伺ったところ再三に渡り遷座不可と出たため、御城鎮守の神・名古屋産土神として名古屋城三の丸郭内に取り込まれることとなる。同時に三之丸東照宮(現・名古屋東照宮)と隣接する。

明治維新期、廃藩置県により社領を没収される。続いて神仏分離令により、社名を須佐之男神社と改称する。神仏分離令により、多くの神社が地名、祀っている神様の名称、神様の持つ力などの社名に改めることとなった。

明治9年、名古屋鎮台が城内に置かれるのを機に、東照宮とともに明倫堂の跡地である現在地へと遷座。

明治32年、那古野創始の由緒に基づき、また土地の守り神様という意もあり、社名を那古野神社と改称。

昭和20年3月19日、名古屋大空襲により本殿以下を焼失。

昭和29年、本殿及び祝詞殿を再建。

昭和32年、拝殿を再建。

昭和34年、渡殿及び神札授与所を再建、完工。


今回の取材では、特に祀られている神様について知ることができました。須佐之男神と木瓜紋の関係、木瓜紋と織田家の関係を知って、今までの疑問が一気に解消した感じです。今後、知り合いと神社などに行く機会があって、その神社の神紋が木瓜紋であったなら私の出番です!このうんちくで一目置かれることは間違いなし・・・か?
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